憧れははるか遠く

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公立高校の入試が終わりました。

 

あとはただ良い結果の報告が得られるのを待つばかりです。

 

高校準備講座、という形で来ている生徒もいますが、中三生の多くは今はお休み中です。

 

一時期の賑わいがずいぶんと昔のことのように感じられます。

 

 

 

慌ただしい時期も終わり、束の間少しだけ心の余裕も出てきて、ふと昔のことを思い出しました。

 

もう10年以上前になくなった祖父のことです。

 

もう五年以上この仕事を続けていますが、仕事は大変という思いは変わりません。

 

もちろん慣れてきて要領よくできる部分は増えましたが、

それでも仕事というものは一定以上の大変さがあって、だからこそお金がもらえるのだと、自分が働いてみて、両親の働きを見て、そして祖父のことを思い出して感じます。

 

祖父とは一緒に暮らしていたわけではありませんが、私が大学で地方に行くまではすぐ近所だったので

よく顔を見せに行きました。

遊びに行くと大抵祖父は仕事中でした。

とても働き者の職人で、学校や病院で使う家具などを作っていました。

 

がんで亡くなる直前まで仕事を続けていた、依頼が途切れなかったわけなので、

今思えば、とても優秀な職人だったのでしょう。

 

そんな祖父を持った私ですから、夏休みの工作などはたいてい祖父の工場で何かを作りました。

 

時には私の父と三人で作業したこともありました。

 

祖母はのこぎりなどが危ないと言って、私が工場に入るのを嫌がりましたが、しょっちゅう私は出入りしていました。

 

 

そんな祖父が亡くなったのは私が大学生だった時です。

 

祖母が亡くなって一年たたない頃でした。

 

死の数か月前、祖父を訪ねました。

 

お茶を飲みながら、ふと私はこんな事を尋ねてしまいました。

 

「おばあちゃんがいなくて寂しい?」

 

祖父は答えました。

 

「そりゃ寂しいよ」

 

今思えば私は何と愚かなことを聞いてしまったのでしょう。

 

あたりまえじゃないか、もっとお前が寂しくないようにしてやれよ!!

 

過去の自分に言えるならそう言ってやりたいと今でも時々思います。

 

 

間もなくして、そんな祖父が肺がんということが分かりました。

 

家族間で旅行にでも行くという話になった際、祖父はこんな事を強く何度も言ってくれていたそうです。

 

「おれはけいちゃんと行きたいんだ!」

 

けいちゃん、私の呼び名です。

 

 

祖父はいつも明るく、ほとんど怒った所を見たことがない人でした。

 

謙虚で、曲った事が嫌いで、誰からも慕われていました。

 

そして我慢強い人でした。

 

人の悪口なども聞いたことがありません。

 

死の間際、痛みで自分のことだけで大変だろうに、いつも看護師さんや周りに気を配っていたそうです。

 

私が地方から群馬に帰ってきた際、一時的に祖父母の家に住まわせてもらったことがありました。

 

そして廊下にうっすらと赤いものがあることに気付きました。

 

そう、血痕です。

 

肺がんでしたから、血を吐いてそれが痕になってしまっていたのです。

 

しかし生前祖父は、痛い、辛いというようなことは誰にも洩らさなかったそうです。

 

 

 

 

昔は分かりませんでしたが今ははっきりと分かります。

 

 

 

おじいちゃん、あなたはなんと偉大な人なのですか。

 

 

 

 

道を踏み外しそうになっても私はこれがあれば生きていけます。

 

すこしでもおじいちゃんに近づけるように。

 

 

天国で会えたらいろんな話をしながらお酒飲みたいなあ。

 

 

 

 

 

ステップ個別指導学院   総社・吉岡校  小西