クラシック

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中学生が苦手とする国語の文法問題で「れる・られる」の識別というものがあります。

 

 

たとえば「先生が話される」であれば尊敬、「魚が猫に食べられる」であれば受身、などです。

 

 

特にすぐ出てこないのが「自発」です。

 

 

「それは不可能に思われる」「あの日のことが思い出される」

 

 

のように、意識しないでも自然とそうなってしまう時に使う表現です。

 

 

 

外国語にこういった表現があるかは定かではありませんが、とても美しい表現だなとあらためて思わされる出来事がありました。

 

 

 

 

 

 

 

先日、某クラシックゲームを購入しました。

 

 

1990年代に一世を風靡したゲームが小さくなって再販されたものです。

 

 

当時やりこんだゲームや、友達がプレイしてるのをうらやましく眺めていたゲームなどが盛りだくさんで、休日を丸一日費やしてしまいました。

 

 

 

私が一番ゲームにはまっていたのは小中学生の頃です。

 

 

 

しかし、そんな私の部屋にゲームはありませんでした。

 

 

 

部屋にあるとゲームばかりになってしまうという両親の懸念から、今は亡き祖父母宅の

 

 

二階の一室に置かせてもらっていたのです。

 

 

 

誰の部屋と決められていたわけではないのですが、他に使う人もおらず、

 

 

私はいろいろな物を持ち込み、学校帰りや休みの日には「自分の部屋」に入り浸ったものでした。

 

 

 

今思えば、孫が毎日のように遊びに来るというのは祖父母にとって、とてもうれしいものだったのでしょう。

 

 

 

 

私が夢中でゲームをしていると階段下から「一緒にお茶飲もう」と声をかけてくれたり、

 

 

 

部屋までジュースやお菓子を持ってきてくれたりしました。

 

 

 

足の悪い祖母は手を使ってゆっくりと階段を上るため、その足音ですぐに誰だかわかりました。

 

 

 

 

祖父母の事はもちろん好きでしたが、当時の私の目当てはあくまでゲームであり、そういった事を少し有難迷惑のように感じていた部分もありました。

 

 

 

ですから時には

 

 

 

「いらない」「お節介はやめて」

 

 

 

などと冷たく突き放すこともありました。

 

 

 

 

すると祖父母は少し困ったような、寂しそうな、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべるのでした。

 

 

 

 

少年時代、私はそこにいました。

 

 

 

 

 

 

・・・そんな事がゲームをきっかけに思い出されました。

 

 

 

当時の部屋の匂いや、差し込む日の光が感じられるようでした。

 

 

 

友や家族の声までが聞こえてくるようでした。

 

 

 

古いゲームをしただけですが、人の心というものは不思議なもので、意識せずともどこか別の場所に飛んでしまうことがあります。

 

 

 

 

自ずとそうなってしまう・・・

 

 

 

 

だから「自発」なのですね。

 

 

 

 

切なくも美しい思い出に浸れた出来事でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

ステップ個別指導学院 総社・吉岡校   小西